忘れな草よりお知らせ
忘れな草プロジェクトの紹介記事が昨年末に日経新聞に掲載されました。
英国に生きた邦人の戦後、映像に記録
在留70人苦楽の証言 ウィリアムズ・モモコ
日本から飛行機の直行便で12時間。はるか英国の地に移り 住んだ日本人にインタビューし、映像記録に残す「忘れな草 プロジェクト」を進めている。在英邦人の団体「英国日本人 会」が2013年に始め、これまでに約70人の証言を得た。 英国の日本人社会は第2次世界大戦後、1950年代から成長 していった。64年の東京オリンピック開催と海外渡航の自由化、日本経済の高度成長、バブル経済などを背景に、英国を訪れる人は増え、いまや在留者は6万人を数える。約45万人 の米国には遠く及ばないが、中国、オーストラリア、タイ、カナ ダに次いで世界6位、欧州では最大のコミュニティーだ。 プロジェクトでは50〜80年代初めに移住し、その後も英国にとどまった人々に話を聞いている。インタビュアーを務める私自身も東京の大学を卒業した66年に渡英し、長らくメディア関連のコーディネートの仕事をしてきた。60年代の一般の英国人が持つ日本の印象といえば、まだ「フジヤマ、ゲイシャ、旧敵国」程度。在英邦人 は家庭、地域、仕事で壁に突き当たることもしばしばあった。
私たちの先駆者である50年代の移住者は今、80〜90歳代。 この世代の多くは女性だ。戦後に軍人や外交官などとして 訪日した英国人男性と結婚し、夫の故国に移り住んで家庭を支え、外で仕事を持った人もいた。 「(英国に来て)3年間は毎日帰ることばかり考えていた」と 話してくれたのは、退役軍人の夫とともに58年に渡英したニコラス岡田清子さん。戦前は日本軍占領下のジャワ島でタイピストとして活動し、戦後は製薬会社などに勤めた岡田さん にとって、夫の母の故郷である北ウェールズの生活は、驚き の連続だったようだ。 トイレは屋外、浴室なし、水は近くの小川からくんでくる。そ れでも周囲の人々の優しさに恵まれた。「いろんなことがあ ったわよ、長い人生には。でも、悔いはなし」と話す岡田さん の笑顔がすがすがしかった。 英空軍の軍人と知り合い、56年に渡英して結婚したケンプ 山口圭子さんは最初、食事作りに手間取った。「最初に作っ たペイストリー(パイなどの生地)なんて、加える水の量を間違えてコンクリートみたいになって、誰も食べられなかったん ですよ」。それでも数年後には学校の調理師として生徒100 人の食事を作るようになった。「義母が本当の娘のよう 接してくれて、私は幸運だった」と振り返る。 70年代、在英邦人はまだ数千人という状況だったが、20 〜30歳代の若者が身一つ同然でやって来て活躍し始めた。 ロンドンでは今、いたる場所で日本関連の製品や食材を扱う 小売店、レストランを見かける。その基礎を作ったのが彼ら だ。 徳峰国蔵さんは、留学先の香港で知り合った妻が英国出身だった。75年に渡英。日本語の書籍を並べる書店や旅行業、 不動産仲介、日本の食材を豊富にそろえる小売店経営などを手掛けてきた。現在はロンドンで人気のラーメンレストラ ンも展開する。「仕事が趣味ですから。いい仕事をするというのは、アートなんですよ」と話す徳峰さん。稼いだお金は倍返しするのが鉄則だという。「自分じゃなくても、子どもたちに いいことがある」。足がかりのない異国の地で自分のビジネ スを育てるにはどうしたらよいか、必死に考え続けてきた彼 の人生哲学に触れたような気がした。 デザイナーのコシノミチコさんが渡英したのは73年。既にデザイナーとして活躍する姉2人の手の届かない場所を考えたら、ニューヨークでもパリでもなく、英国しかなかったという。 ウェールズに進出した日本企業の工場で、現地採用の社員として30年近く勤務した松井みどりさんの話も、日英の企業文化の違いを知ることができる貴重な証言だ。 他にも、戦争捕虜になった英国の元軍人と日本人の和解活 動を進めてきたホームズ恵子さんなど、現時点で計31人の 証言のダイジェスト版をウェブで公開している。 http://wasurenagusa.org.uk/ja/
ゆくゆくは100人規模のアーカイブに したい。さらには、80年代以降に移住 した若い世代の記録も残していきた い。70年代までの移住者は、結婚相手 や知人など偶然の縁を頼りにしたり、 写真:ウィリアムズ・モモコ 漠然と外国に憧れて英国にやってきた りという例が多かった。80年代以降は英国の音楽が好きと か、ファッションや美術を勉強したいとか、明確な動機のある 人が多い印象だ。この違いは何によるのだろう。若い人たち に証言プロジェクトを継いでもらって、理由を解き明かしてほ しい。
(英国日本人会副会長 ウィリアムズ・モモコ)